第七号・2002年2月1日
春が近くにやってきました。 |
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| ■女将の風信帖7 | ||
| ■知性、想像力、そして技術 ― 荒井利春 女将● 先生のご専門のユニバーサルデザインというのは、暮らしやすいためのデザインということですね。 荒井●おっしゃる通りです。歳をとっても、身体が弱くなっても、今まで自分が培ってきた趣味とか文化的な奥行きの深さとかをそのまま持続していけるような。そのためには、私たちデザイナーは日常生活の道具や家具だとか、住宅とか、もっと大きくいえば町づくりをもっと丁寧に考えてゆかなければならない。 女将●道具ひとつをとってみても、あまりにも多すぎて、しっかり選んでいかなければいけないという問題がありますね。 荒井●二十世紀の工業化社会は、大量生産でみんなが一定の質のものを使えることを実現したわけなんですが、 ”使い手の見えないものづくり“といった弱点があったと思うんです。工業的につくるにしても、使う人の顔をどうやってつくり手が見ていくのか、それが二十一世紀の課題だと。そうなると、ありのままの姿の人に眼を向けて、あらためて丁寧にものを考えてゆく、そこから新たなもののつくり方を構想していくというような。 女将● たとえば高齢者を受入れるようになって、椅子ひとつの働きとか役割がすごく見えてきて、今は椅子に凝ってみようかなと。 荒井●腰掛けるだけでなく、手荷物を置くとか、身体をちょっと支えるといった、そういう椅子への配慮はうれしいですね。お風呂に安心して入ったり、中でリラックスできるというのも、とても大事なことで。湯舟の縁のちょっとした高さや幅に大切な機能が潜んでいます。大げさな手すりをつけて済ませるのではない、粋で安心して入れるお風呂であってほしい。 女将● この間、はじめて湯舟の後ろにもたれかかる丸太をつけたんです。そうしたらお客様に好評で、そういう小さな工夫ひとつで温泉に入ることも変わるんだなと。 荒井●バリアフリーとかユニバーサルデザインというのは、もっとクリエイティブなものじゃないかと考えていて。生活現場で三つ
女将● 怖いんですが、やはり、その人の知性とか品格が出てしまいますね。ですから、今は未熟でもいいから必死にやっていくという気持ちがだんだん磨かれて。お客様に育てられて、私たちも勉強してゆく。そういう心持ちが通ずればいいなと思っているんですけど。 荒井●たぶん私たちが宿泊を楽しんだり、料理を楽しんだりするのは、一つ一つの料理そのものもそうだけど、その背後にあるつくり手の知性とか感性とか、そういうものを味わいにきているのでしょうね。 女将● そうだと思います。怖いのは、先生のおっしゃるその背後にあるものです。今はほとんどのものが手に入るわけですから、たいがいのお料理は自宅でも食べられますわね。お客様はそうじゃない何かをもとめていらっしゃる。だから、空間とか匂いとか、すごく大切ですよね。 荒井●それを代々、持続し継続していくには、誰がしっかり受けとっていくのか、伝えていくのか、やはり人の問題が非常に大きいでしょうね。簡単に電卓で計算できるといったものではないわけで。旅館の蓄積してきた歴史への責任と、今を生きている自らの感性、そこからの創造といった、何かおおらかな営みといいますか、そういうものが大切なんでしょうね。 |
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荒井利春あらいとしはる金沢美術工芸大学 デザイン科教授 料理でいえば、材料の選択や調理の技術はもちろんですが、板前さんの人柄がほんとに大きな要素だと思います。精神が安定していないと、同じものをつくっても、それが料理に出てしまうんでしょうね。オーケストラを聴いた時に、あれだけの人数の人たちが気持ちを揃えて一つの音楽を伝えるように、たくさんの料理をオーケストラ的に調和していくわけですから、責任者の方の、コンダクターでもあり楽器演奏者でもありの、バランスというものはすごく大きいでしょうね。 |
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| ■私の加賀名所 | ||
| ■吉崎御坊/出島二郎(プロデューサー・金沢在住) 最初に鹿島の森を訪ねたのは三年前のことで、加賀市役所の学芸員のMさんが案内してくれたのだった。橋立や塩屋や瀬越という北前船の里を歩き、瀬越の大船主大家家の前から大聖寺川の向こうに鹿島の森を眺めた。その時、鎮守の杜だなと思った。それからもう一度、別の用件でこの界隈をめぐり、鹿島の森に出た。 ここはかつて天台宗の霊場であったのを大聖寺初代藩主利治公が法華宗の道場にあらためたが、明治九年以降は廃絶してしまったという。しかも潟の中の島は土砂の堆積により、今では陸に続いている。 森の入口で、アカテガニを見つける。というより、アカテガニの群れの中に足を踏み入れたのだ。ツルガマイマイも生息するこの森は、数百年来、自然のままに放置され、シイ、タブ、ヤブツバキ、ヤブニッケイなどの老木が生い茂っている。三度目の今日は、吉崎御坊の高台から鹿島の森を見下ろすことになった。 子供のころ「肉づきの面」の話を聞いた。これは「嫁おどしの面」ともいわれるそうだが、それ以来、吉崎御坊は怖い場所になってしまった。約半世紀前の寒村の雪の深い夜のことで、話し手がだれだったか覚えていないが、臆病者の私の肝だめしをしたのは父の遊び友だちだったように思う。意地悪な姑と信心深い嫁にまつわる単純な物語だから、その内容は割愛するけれど、肉づきの面という言葉が忘れられなくなった。自分の顔にくっついて離れない般若の面というイメージに支配されて。 文明三年(一四七一)、蓮如は加賀と越前の国境・吉崎に道場を開いた。ここが一向宗の拠点として、やがて一向一揆につながってゆくのは周知の通りである。通称御山といわれる吉崎山は標高三二メートル。蓮如は、その山頂をけずり坊舎を建てた。三方を北方湖に囲まれたその跡地に立つと、寺が城でもあったことがよくわかる。日本海・北方湖・大聖寺川そして鹿島の森。蓮如がこの地を選んださまざまな理由は史書に詳しいが、私にはこの鹿島の森が決定的な要因の一つに思われてならない。 この日、霙まじりの師走の風が吹いていた。松林の中に建つ高村光雲作の蓮如像に手をあわせて細い階段を下ると、その横手に民家のような肉づきの面の寺があった。 |
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| ■吉崎御坊 福井県坂井郡金津町吉崎 |
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